旅が習慣になると、心が軽くなっていく。 そう実感するようになったのは、四十代に入ってからだった。
若い頃は、旅にあまり出なかった。三十代は時間の余裕もあったはずだが、それでも年に数回程度しか旅に出なかった。
当時は東京に住んでいた。上京して十年も経てば、かつて刺激的だった都会の生活も、次第にルーティンになり、代わり映えのない日常に変わっていく。いま思えば、もったいない時間を過ごしたように思う。
とはいえ、当時はスマートフォンもマップアプリもなかった。いまと比べれば、地方や田舎への旅のハードルはずっと高かった。情報がなければ、見知らぬ街に出かけること自体、抵抗があったのだろう。いや、その発想すらなかったと思う。
いまでは、前の旅からひと月も経てば、次の旅に出たくなる。ずっと同じ街に留まり、代わり映えのない生活を続けていると、半径数キロの世界がすべてに思えてきて、少しずつ世界が閉じていくような感覚にとらわれる。
田舎で暮らしたことのなかった私が、自然豊かな熊野へ移り住んだのも、そうした理由からだ。よく田舎は変化がないと思われがちだが、実際には、風景や食材を通して四季の移ろいがはっきりと感じられ、都市部の暮らしよりも変化に富んでいると感じる。
とはいえ、それも日々の営みのなかで次第に馴染み、やがてはルーチンとなる。そうなってしまっては、せっかくのこの暮らしも台無しだ。それに、都会の空気も、たまには恋しくなる。
田舎暮らしと旅は、私にとって両輪のようなものだ。

旅と言っても、海外に出るわけではない(いまは円安でもある)。何かに挑戦するわけでもない。ただ、その街で暮らすように歩き、食べ、眠るだけの、のんびりとした旅だ。
そんな気軽な旅に、劇的な出来事は起こらない。だからこそ、気が向いたときにふらりと出かけられる。心理的ハードルが低い分、頻度は自然と増していく。そして、旅は「習慣」になった。
気ままな旅でも、風景は日常とは異なる。知らない道を歩き、見慣れない建物や看板を目にするだけで、五感が動き出すのを感じる。
人類がまだ野生の生活をしていた頃、生活圏から外れた場所では、危険に備えて五感を鋭くしていたはずだ。現代のような安全な時代でも、新しい場所に身を置くことで、心地よい緊張感が生まれ、感覚が研ぎ澄まされる。これは、人間の本能なのだろう。
旅先では、飲食店で人と話すこともある。初対面の相手か、年に数回しか顔を合わせない人たちとの距離感には、ちょうどよい緊張と気楽さがある。そうした会話には、惰性で続く関係にはない、一期一会の張りがある。
そんな時間を過ごすと、いざとなれば、どこでも生きていけるような気がしてくる。

私はふだん、物を買うときは慎重だ。質を重んじ、安易には手を出さない。だが旅に関しては、量のほうを選んでいる。綿密に計画を立てた年一回の旅行よりも、数日前に思い立ち、ふらっと出かける月一回の旅を好んでいる。
そんな旅の習慣が、いまの生活の一部になった。以前の自分を思い返すと、代わり映えのない日常に浸っていた頃は、思考が確かに硬くなっていた。そして、世界が閉じていくような感覚にとらわれていたのかもしれない。
旅先で出会う人のなかには、偏見にとらわれているように見える人もいる。きっと旅する習慣のない人なのだろう。そんな彼らは、かつての自分の写し鏡でもある。
それと比べれば、いまの自分は、身も心も軽くなったと感じている。