先日、『プラダを着た悪魔2』を観た。アパレル業界の人も話題にしていたからである。前作を見たことがなかったので、まず前作を観てから、翌日、映画館へ足を運んだ。
前作には、仕事だけが人生ではないというメッセージが込められているように感じた。対して続編では、利益や効率だけでは測れないものを守ろうとする人々が描かれている。前作が公開された2006年から、2026年現在に至るまでの変化が反映された内容だった。
私は男性としては、衣類に人並み以上にお金を使ってきた方だと思う。だからこそ、効率が重視され、商品サイクルが異常に速くなったこと、SNSのバズが購買の動線になり、流行が短期化していることに、疑問を抱いている人間の一人である。
映画の中では、テックビリオネアたちが経済界で大きな影響力を持つようになった様子が描かれる。彼らは仕事の場にラフな格好で現れ、アパレル事業を投資対象としてしか見ていない人物として描写されている。
ややステレオタイプな描写かもしれないが、現実のテックビリオネアにも、身なりに時間をかけるより、効率と変革を重視する人は多い。また、「見た目より実力」というカウンターカルチャー的な価値観が、いつしか新しい権威としてカリスマ化した面もある。
その一方で、ファッションの商品サイクルも高速化していった。お洒落が好きな人は、そのサイクルの中で着せ替えを楽しみ、服に興味がない人は、安価なファストファッションで十分と考えるようになった。
映画の中で、テックビリオネアが「伝統だって? 近いうちに、モデルもロケーションも、デザイナーすら必要なくなる。すべてAIになる」と語る場面があった。しかし、効率を追求する仕事ほど、AIの得意分野である。ならば、投資家たちもまた「代替」の対象に入っているのではないか。
効率の分野をAIが担うようになれば、人間は効率以外の価値を、より求めるようになるのかもしれない。そうなれば、効率だけを軸に価値が測られる現在の状況も、少しずつ変わっていく可能性はある。
映画の中では、アパレルやハイブランドの人間が、文化を守ろうとする人々のように描かれていた。しかし、そこには疑問もある。彼らもまた、流行と消費のサイクルを生み出す側だった。同じものを長く着られるより、次々と新しいものが求められる方が利益になるからだ。
もちろん、そこから定着したものもある。むしろ、それが生まれる余地は今より大きかったのではないかとも思う。人々が普遍的な価値を見出し、それに見合う質を担保するだけの時間が、まだ残されていたからではないか。
今、クラシックスタイルと呼ばれるものも、元を辿れば、それぞれの時代の流行に起源を持つ。数多く生まれては消えていった装いの中に、時間というフィルターを通過し、なお普遍的な美を感じさせるものがあったからこそ、それらはクラシックになり得たのだと思う。
しかし、時間が価値を選び分けてくれるとしても、それだけで文化が残るわけではない。作る人がいて、買う人がいて、使い続ける人がいて、初めて次の時代へ渡っていく。
国内で衣類を作る環境は縮小し、職人の高齢化と引退も進んでいる。そんな中、自分が守りたいと思うものにお金を使うことの重要さを、改めて感じた。

