写真をよく撮る方だ。旅先で風景や食事の写真をよく撮る。しかし、自撮りはしない。人に撮ってもらうこともしないし、人の写真を撮ることもしない。

服を着た状態で顔から下の写真を撮ることはある。街の風景と一緒に人々の後ろ姿を撮ることもある。ただ、人の顔が映っている写真を撮りたがらないのだ。

なぜ人の顔を撮りたがらないのか。あまり深く考えたことがなかったが、この理由を改めて自分なりに考えてみた。

はっきりと自認できる理由の一つは、若い時の自分を見て、「老いてしまった」「若い頃は良かった」と思いたくないからだ。元々、私はあまり過去を振り返らない性格である。意識は現在と未来に向いている。中年になると「昔の方が良かった」と懐古主義に陥る人は多いが、私はそのような感情を抱くことはない。

しかし、写真を撮ることは今を切り取る行為だ。撮った瞬間に、人であれ風景であれ被写体は過去になる。過去を振り返らない性格であるにも関わらず、なぜ私は写真を撮り溜めるのだろう。

撮った風景をあとで眺めることはよくある。ただ、懐かしいという感情を抱くことはほとんどない。この景色は綺麗だった、また行きたい、今度はこう撮りたいと思うことはある。自然の風景は短期間では変わらないし、懐かしむ対象にもなりにくい。

しかし、街や飲食店内、食事の写真もよく撮る。都市部は街並みも飲食店も移り変わりが早い。食事のメニューも変わる。過去を振り返らないのに、なぜそれらを撮り、記録しようとするのか。

改めて考えると不思議だ。そこで別の視点からも考えてみた。

私は他人の写真にあまり興味がない。芸術写真にも興味がない。他人の写真は他人の体験に根差している。芸術写真には何らかの意味づけがされている。それらは自分の体験とは関係がないものである。

このことから、私が写真を撮る動機は、自分の体験の記録にあると考えられる。

ただ、体験の記録をしたいだけであれば、他人と過ごした時間を写真に撮ろうとするだろう。しかし、私はそれをしない。私は他人との情緒的な出来事を記録したいとは思わないからだ。

また、私は過度に加工された風景写真も好きではない。行ったことがある場所の風景を、彩度を上げて見栄えするように加工した写真を見ると、現実との乖離に不快感を覚えることすらある。

低彩度のノスタルジックな加工写真も好きではない。それもまた現実と乖離し、意味づけが付与されたものだからだろう。

さらに別の視点で考えてみよう。若い時から服は好きだったし、今はテーラーメイドのクラシックスタイルに傾倒している。多様な色と質感の生地の中から自分で選ぶことができることに魅力を感じている。コーディネイトを考えるのも楽しい。

そう考えると、私は芸術作品には興味がなくても、色や質感そのものには強い関心を持っているらしい。

私がシャッターを切りたくなるのも、色や質感、光の組み合わせに目が留まった時だ。つまり、その場で知覚したものを記録しようとしているのである。このように考えると、街並みや飲食店、食事を撮る理由も説明できる。

人間嫌いだから人の写真を撮らないのではないかと思われるかもしれない。しかし、旅先でも店の人と話すことは多い。人間に興味がないわけではない。ただ、関心の向く先が少し違うのだろう。

結局のところ、私は人間よりも環境に興味があるのかもしれない。旅先で印象に残るのも、その土地の空気、街並み、店の佇まいである。

写真は思い出を残すためのものだと言われることが多い。しかし、私にとって写真は少し違う。思い出を保存しているのではない。

その時、自分がどんな世界を見ていたのか。その記録を残しているのである。